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姫路城の釘を火造で造ったのが鎖の始まり

姫路市白浜町一帯は、鎖の一大産地であり、当地域には58社に及ぶ鎖製造業者が立地し、その生産高は全国の約70%を占めています。

鎖の発祥についてみると、江戸時代、当地において、
「姫路城築城に際し、必要な釘を火造で造ったのが始まりで、築城後も釘の製造は続けられた。これがいわゆる"松原釘"である。このため松原村(現・姫路市白浜町甲)の人は、鍛冶に対しては少なからぬ知識と経験を持っていた。」
と言われています。
その鍛冶技術をいかし、明治の中頃、船釘の製造も行われるようになりました。

松原村で酒造業を営んでいた瀬川長蔵氏は、酒造業が行き詰まった為、明治時代の末期に大阪に赴き、現・大阪西九条において、ワッシャー、船釘等の製造を開始しました。
また、大阪製鎖所(現・大阪製鎖造機株式会社)の下請け工場として鎖の製造も行うようになりました。

大正3年、第一次世界大戦に伴い、鎖の需要は急速に増大し、その対応を迫られていた同氏は、故郷松原村一帯の鍛冶技術の活用を考え、姫路市内の木場港付近に分工場を開設し、北村千代吉氏、堀江朝吉氏さらに熊谷栄治郎氏等を弟子として養成しました。

姫路城・鍛造製造・チェーン棒鋼を曲げている所イメージ

その後、木場の工場は閉鎖されましたが、弟子はそれぞれ修得した技術を生かし、各自で鎖の製造を行うようになりました。これが白浜地区における鎖の発祥です。

このようにして、白浜地区一帯において鎖の生産が行われるようになりましたが、当時の製法は火造であったため、生産量は僅かでした。

細物鎖については、昭和15年頃に電気溶接機(アプセットバット)による機械製法が考案されるに至り、量産が可能となりました。
また、船舶用鎖については、従前の鍛冶法、鋳鋼法では人手を要し、大型化、量産化に限界があり、抗張力の低い鎖しか製造できなかったが、昭和32年、外国製の大型溶接機(フラッシュバット)が導入され、さらには、この大型溶接機が国産化されるに伴い、高品質の太物鎖の生産・量産化が可能となりました。

このようにして、白浜地区一帯は、細物鎖、太物鎖の一大産地を形成するに至ったのです。